2026年3月19日号
通算25-09号
稲作不適の網走で陸稲に挑戦
“上川100万石”と呼ばれる稲作地帯で子ども時代を過ごした。近くに水田が広がり、母の友人が稲作農家を営んでいた。そのお陰もあって貧しい時代だったが、白米が食卓から消えることはなかったような気がする。
農業とは無縁だったが、高校生になって始めて、農家でアルバイトを体験。刈り取った稲を丸太の組み木に架ける「稲架掛け(はさがけ)」作業だった。刈り取ったままでは、カビと匂いがつくから、太陽と風でゆっくりと乾燥。稲を逆さに架けるのは、葉や茎に残っている栄養を米に集めるためだと聞いた。機械化が進み、今はもう見られないが、この「稲架掛け」作業はとてつもなく辛い体験だった。歳を重ねた今も、白いご飯を前にすると、あの時の光景が目に浮かぶことがある。思い巡らせると、あれは農作業の大変さの一端をわが身に記憶させてくれる大切な日なのだった。
北海道の米作りは、明治初期以降、北の厳しい気候風土との闘いだった。「開拓使」の農業顧問ケプロンは、寒地北海道に稲作は不適と指摘、麦類や牧畜の振興を推奨した。
しかし、農民の米作りへの情熱は止み難く、稲作への挑戦が続いた。そうした長年の努力で、今や北海道は、日本を代表する米産地として揺るぎない。つい先年まで道産米はまずい米の代名詞で、増量米としても使われてきたが、今や“ブレンド米”から“ブランド米”へ。「ゆめぴりか」「ななつぼし」は、「特A」評価を14年連続で受けた。関係者のこれまでの渾身に深く感謝するばかりだ。
昨年秋、思いがけない「ひと」「こと」に出会った。網走の福田稔さんは、てん菜、でん粉原料用じゃがいも、小麦を生産するが、いずれも加工原料用。「自分が作ったものを誰が食べているのか、それが美味しいのかどうかも分からない・・・」との思いを募らせた福田さんは、仲間が米作りの夢を語っていたことを思い出す。「米なら種を蒔き食べるまでを自分の目で確かめられる」「子どもたちのために学校給食用の米を作ろう」と2018年に一念発起。傾斜地が多いため、当初から畑で稲を「陸稲」に挑戦。失敗を重ねながら7年目の2024年秋、1.2haから6.3トンのもみを収穫。網走市教委と相談し1日限りだが、市内の5つの小・中学校830人に福田さん生産の「ななつぼし」が提供された。初めての「網走産米」に歓声を上げる子どもたち。福田さんの顔にも笑顔がこぼれた。
産業としての意味合いは、まだ未知数だが、稲作不適地の網走で「陸稲」にトライアルする福田さん。地球温暖化の中で食糧問題が問われる今、その挑戦は、新時代に向けた「フロンティアスピリッツ」と言っていい。何より福田さんが模索する大量生産社会で失った「生産」と「消費」の顔の見える関係の復権は、豊かな地域社会の継続にとって必須のものだ。福田さんの“地域”を見つめる柔らかな眼差しには“未来への希望”が宿っている。






